私が開院した理由

初めての骨折

私の幼少期は、それはそれは活発でした。

家でじっとしていられない性格だった私は、学校から帰るとランドセルを置いて外に遊びに行き、野球・サッカー・鬼ごっこなどをみんなでし、日が暮れたら帰るというのが日課でした。

そんなある日、弟と自転車に乗り遊んでいた私は、よそ見をした際に、木に激突し右腕を打ちつけてしまいました。

急いで近くの接骨院へ連れて行ってもらい、先生にレントゲンを撮ってもらいました。(昔は接骨院でもレントゲンを撮ることが許されていました。)

診断結果は右上腕骨骨折

先生からは、『ちょっと痛いけど我慢だぞー』

と整復してもらいました。小学二年生でしたが、今でもその時のことをはっきり覚えています。

明るく優しい先生を見て、接骨院の仕事ってかっこいいかもと思いました。

栄光と挫折

小学校4年生から空手を始めました。

始めた頃は、年二回行われる昇級審査が待ち遠しかったです。

厳しい練習の成果を発揮するチャンスで、がんばり次第で帯の色がどんどん変わっていったからです。

中学生の時に県大会で2位になり、初めて全国大会に出場しました。

県大会の成績と全国大会に出場したことで、スポーツの有名校から推薦をいただくことも出来ました。

高校でも県大会優勝・関東大会・全国大会にも出場出来ました。

しかし、その陰で日々の厳しい練習で、体はあちこち悲鳴をあげていました。

特に膝の状態は深刻で練習後はいつも腫れあがっていました。

そんな矢先に練習試合でとうとう膝は壊れてしまい入院、手術が行われました。

手術は成功しましたが、筋力低下から動きは悪く、自分の膝じゃないみたいでした。

私が入院している間に、周りのみんなはどんどん活躍していき、徐々に自分の居場所がなくなってしまうのではという焦りから、無理なトレーニングをしてしまい悪化。

手術は免れたものの、最後の全国大会はスタンドからの応援と不完全燃焼で終ってしまいました。

新たな目標へ

人の役に立ちたいという思いから、消防士になりたいという夢もありましたが、膝への不安から専門学校の入学を決めかねていました。

悩んだあげくに入学こそしたものの、やはり痛みで走れなかった私には厳しい現実が待っていて、絶望を感じ退学いたしました。

目標をなくし、ダラダラした生活を続けていたある日、新聞の折り込みチラシから整体師の募集を見て、仕事の内容から膝に不安がある自分でもこれなら出来るし、人の役にも立てるかもしれないと思いその日のうちに連絡し、面接後採用していただきました。

こうして整体師としての第一歩を踏み出しました。

想いへの再確認

整体師としての道を歩むことになりましたが、現実は厳しく、来る日も来る日も雑用の日々…、思っていたような世界とはだいぶかけ離れていて、仕事も徐々に雑になっていき、なんでここに自分はいるのだろうとさえ思っていました。
〝人の為になるのなら〟と言っておきながら、その考えはどこか置き去りになっていて、ケガさえしなければ今頃は・・など、いつしか自分の事ばかり考えるようになっていました。
そんなある日、腰に痛みを抱えた学生さんが藁にも縋る感じで来院されました。
明日、大事な試合があるのですが何とかなりませんか?と涙ながらに訴えておりました。
その姿を見て、自分以外にもこういう経験・体験をする人は意外に多いということを目の当たりにし、自分のケガだけが特別なことではないと気づき、このような人達に何が出来るのかを真剣に考えるようになりました。
その後、整体以外にケガに対しての治療をもっと学びたいとの思いから、国家資格でもある柔道整復師の学校に行くことを決意し、昼は接骨院、夜は学校で遅くまで勉強と忙しいながらも充実した日々を過ごしていきました。
周りの皆様のおかげで、3年間のカリキュラムを終え、実技認定試験にも受かり、無事国家試験にも合格することが出来ました。

プロとして

卒業式で、柔整学校の校長先生から

『免許を取ってからが本当のスタートです』

と、言われたようにこの資格をしっかり活かさなければ何にもなりません。

あの卒業式から10数年経った現在も、痛みやケガで苦しんだり、悩む方のお力になりたいとの想いは年々強くなっています。

学校の同級生や、先輩・後輩、セミナーなどの勉強会で知り合った多くの方々と情報を共有し、日々精進しております。

本庄市ならびに近隣市町村の皆様

本庄市栗崎で2010年に開業させていただき、10月で10周年を迎えようとしております。

たくさんの皆様に支えられて今日まで来ることができました。

これからも、微力ながら皆様の生活やスポーツのサポートのお手伝いをさせていただけたと思います。

よろしくお願いいたします。

庄野

しょうの接骨院 整体院